モンキーターンの生みの親・飯田加一は、大学で航空物理学を研究した大卒競艇選手1号だった

モンキーターンの生みの親・飯田加一は、大学で航空物理学を研究した大卒競艇選手1号だった

競艇マンガのタイトルともなった「モンキーターン」、コーナーを旋回する際に前傾姿勢で立ち上がって鋭く回るこのテクニックは、同じターンでも「ガードレールキックターン」のようなマンガの中だけの必殺技ではありません。
このテクニックを完成させたのは実在の競艇選手である飯田加一。

この飯田選手、大学で航空物理学を専攻した大卒競艇選手第1号で、ウインドサーフィンをたしなみ、歌手としてCDを出し、けん玉初段、動物が好きでムツゴロウの動物王国で働きたかったという、あまりにも多彩な才能を持つ人物です。
今回は、モンキーターンの生みの親・飯田加一選手の人物像をご紹介します。

天文学に憧れ、パイロットを目指し、競艇選手へ

飯田選手は1949年東京都武蔵野市出身、所属は東京支部、2016年没。
そう、故人なんです。
享年67歳。

競艇選手としての経歴をざっと見てみると、1972年に第36期選手養成員として本栖研修所に入所。
1973年選手登録(登録番号2679)、同年の一般戦デビューでいきなり1着。
1992年に多摩川競艇場でG1初優勝。
2012年引退。

生涯成績は出走回数7,363回、優勝回数42回、獲得賞金の合計額が約7億5千万円とくれば、「超一流」とまではいかなくとも成功したレーサーであったとは言えるでしょう。

学歴不問の競艇の世界、大卒選手もいるにはいますがそれほど多くはありません。
現役選手で有名なところでは、中村かなえ選手はお茶の水女子大理学部卒。
なんでまたそんな才女が競艇に!と思わず声をあげてしまいそうになりますが、飯田選手も同じく理系、しかも東海大学で航空物理学を専攻したこちらも秀才。

飯田選手はもともと天文学に興味があったそうですが、日本に天文学の勉強ができる大学は少なく自分の学力では入学は無理だと諦め、物理学を専攻したものの本意ではなかったことからパイロットに興味が湧いて来たといいます。
しかしながら、パイロットは日本航空と全日空の身長規定を見て断念(ちなみに本人の身長は165cm)。

そこで次に目指したのが競艇選手というのですから、基本的に諦めがいいというか、「やりたいこと」が次々に出てくる性格のようです。
とはいえ飛行機から競艇、その後ウインドサーフィンにもチャレンジしているのを見ると、スピードが出るものをコントロールしたい欲求もしくは衝動のようなものがあったのかもしれません。

モンキーターンはどのように誕生したのか?

さて、飯田選手が競艇の歴史に残した最大の足跡「モンキーターン」はどのように誕生したのかを説明しましょう。

まず、競艇用ボートの一般的な運転姿勢(乗艇姿勢といいます)は「正座」です。
ターンする際にはハンドル近くに座を移して左右の脚を開いて膝立ちになり、ボートの内側に押し付けて体を固定。
直線でスピードを出す際は重心を後ろに置き、頭が隠れるくらいに伏せて空気抵抗を減らします。
このように、選手は基本的にボートの中でできるだけ小さくなっています。

これに対してモンキーターンは膝を伸ばしてボートの上に立ち上がり、右足の荷重によりサイドをかけながらターンします。
これによってスピードを殺さず鋭角に切り込んで直線に入れるわけです。
しかし、ある種曲芸のような乗り方ですから、最初に見た人はさぞ驚いたことでしょう。

命名は乗馬の「モンキー乗り」にヒントを得たと言いますが、鞍から腰を浮かせて馬にまたがる姿勢はたしかに似ています。

元祖モンキー飯田加一選手のモンキーターン

モンキーターンが登場する以前、ターン時はスピードを落として旋回するのが普通でした。
しかし、直線ではさほど差が付かない競艇は、早くターンできる者が限りなく1着に近い存在です。

ここに、ほぼトップスピードでターンする「全速ターン」を得意とする今村豊選手が登場、競艇は一気にターンスピードを競う時代に突入します。
今村選手の全速ターンはターンマークぎりぎりで回るために艇の先を少し浮かせ、その浮かせた部分をターンコーナーの上に乗り上げさせるというもの。
モンキーターンは、いわば全速ターンの進化形ともいえるものです。

この原理は、飯田選手が趣味のウインドサーフィンのテクニックをボートに応用したものと言われています。
モンキーターンのアイデアを飯田選手が大学で航空物理学を専攻していたことと結び付けたがる人もいますが、ウインドサーフィンの応用であることは本人が言っているので間違いないでしょう。

ただ、動画を見れば分かるように、いくつもの艇が旋回するターンマーク付近は水面が荒れて大きく波打ちます。
ただでさえ不安定なところに小さな艇の上で立ち上がるのですから転覆しやすく、とても危険です。
当初は飯田選手も確実にモンキーターンができていたわけでなく、転覆することも少なくなかったため主催者から注意を受けることが多かったとか。
それでも頑固にモンキーターンにこだわり続けた飯田選手は徐々に技術的完成度を高め、レースで勝利をものにしていきます。

これを見た若手選手たちも一人また一人とモンキーターンを採り入れ始めますが、中でも習得に熱心であったのは、その後「艇王」の異名を取る当時はまだ若手の植木通彦選手でした。
1993年、植木選手がボートレースクラシック(当時は総理大臣杯)でモンキーターンを駆使して勝利、これを機に、モンキーターンは競艇のスタンダードなテクニックとして広まることになります。

引退後は町の音楽家として活動

さて、冒頭に飯田選手が多趣味であることに軽く触れましたが、実は飯田選手、ブログを書いておられたのです。
しかし、残念ながら使っていたのはYahoo!ブログ。
ご存じの通り、Yahoo!ブログは2019年いっぱいでサービス終了しており現在閲覧することはできません。
飯田選手が亡くなったのは2016年なので、当然ブログの引越などしているわけもなく・・・。

RSSサイトに若干の残骸があったのですが、ブログのタイトルは「Kaichiの奏でる優しい音楽~元祖モンキーターン飯田 加一~」。
趣味の音楽の話題を中心としたブログであったようですが、いくつか残っている記事を見ると、クラシックギターとオカリナが得意で、たまに公園でライブをやっていたようです。
歌声もアップロードしていたようなのですが、聞くことができず無念・・・。

曲のタイトルだけ列記すると、サザンの「朝方ムーンライト」、松山千春「恋」、井上陽水「いっそセレナーデ」、来生たかお「夢の途中」・・・。
1949年生まれなので、「歌手としてCDを出している」としても演歌だろうと思っていたのですが、意外にもニューミュージック(死語)とは、なかなかやります飯田選手。

残っていた記事には小学校時代の出来事を書いたものもありました。
天文学に憧れていた飯田少年、クラスでは紙飛行機を作って飛ばすのがバツグンにうまかったそうです(すでにパイロットの資質が開花)。

ある時、校庭でクラスメートと紙飛行機の飛ばしっこをしたら、飯田少年の飛行機は風に乗って校舎を超え、そのままどこかへ飛んで行ってしまったとか。
またある時は、理由は分かりませんが小学校の廊下で奇声を発していたら先生に「後で職員室に来い」と言われ、叱られると思って行ったら「合唱団に入れ!」と命令されたとか。
ソプラノパートだったそうで、先生は飯田少年の美声に感じるものがあったのでしょう。
そういえば、アップロードしていたのも井上陽水など比較的キーの高い曲が多かった印象。
きっといい味を出していたのだろうなあと、今は想像するしかありません。
少年時代のことを書いたブログ記事を、飯田選手は「シ・ン・ジ・ラ・レ・ナ・イ・・・」と締めくくっています。
そうか、ヒルマン監督の日本ハムが優勝したのはこの頃だったんだなと、読んでいて懐かしい気持ちになったのでした。
ブログが消えてしまったのがつくづく残念・・・。

けん玉や動物については情報が見当たりませんでした。
それにしても飯田選手、ブログタイトルにしっかり「元祖モンキーターン飯田加一」と記しているのを見ると、モンキーターンを完成させたのは自分だという自負はあったと見えます(モンキーターンに近い旋回テクニックは飯田選手以前にもあるにはあったようです)。
生きていたらさぞ洒脱で面白い爺さんだったでしょう。
競艇ファンのブログに引退前の飯田選手が登場している記事もありました。
ブロガーは女性のようですが、飯田選手の印象は「すっごくおしゃれで、笑顔がかわいくて、おしゃべりも上手」「終始ニコニコニコニコして、ファンのみなさんに接してくれる、ほんに素敵な選手」だったのだそう。
別のブロガーのブログでは、多摩川競艇場でエレキギターを弾き語りしている写真がありました。
趣味の一番手は歌だったのでしょうね。
今は雲の上から後輩たちのモンキーターンを見て「あれ作ったのワシ」などと笑っているのではないでしょうか。

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Posted by 競艇の鬼